時間的制限と自己形成の為の時間の使い方

残念ながら時間的制限があることは世の中に多い。


24時間のうち6時間ぐらいは寝ているだろうし、
2時間ぐらいは移動したりしているし、
同じく1、2時間は食事をしたりしているだろう。


それだけでも、一日のおよそ半分は最低限の行動のために時間を使っていることになる。
もちろんそれをしながら何か考え事をしているということはあると思うのだが。

それでも、24時間は36時間になることはなく
創作的な時間などを増やそうと思えば、寝る時間や食事の時間を削ぐことになる。


当たり前のことだが、時間は増やせないのだ。
これは全ての人に当てはまることであって、自分だけということはない。



私はやりたいことが日々増えていくような性格なのだが、
さらに悪いことに、その全てをやろうとしてしまうところがある。

そんなことは当然できないのだが、あれもこれもと手を出す癖はすぐにはなくならない。
しかし、やったことに関して何も得られないということはないと考えている。

例えばそれが単なる暇つぶしであっても、
暇なときの時間のつぶし方を得たと考えることもできる。


今年になって考えを改め、なるべく人に会うということをしてきて
本当に様々な人と会うことができた。

それぞれが何か得意とすることだとか、プロフェッショナルなものを持っているのだが
それはやはり才能や天性というものよりも
積み重ねた経験によって形作られているのがふつうである。


ある分野について突出している人は、その分野についてそれだけ時間を割いてきたということなのだ。

だからといって他の分野も突出しているかというと、それはまれなケースで
突出した分野に時間を割いてきた分、それ以外に関しては知識がないということもあるだろう。


そこで重要になってくるのは、自分がどうなりたいかを考えることだ。
もしくは、どうなっていたら・どうしていたら楽しいと幸せだと感じられていることができるかということだ。

つまり、ある分野についてやっていることが自分の幸せな時間だと感じれば、
それは時間をその分野に関することに割いていくべきであろう。

それは自分でも自覚しているのだが、
私の場合、やりたいことの為に時間を割くというのとは別に
おもしろいことを見つける時間も同等もしくはより多く割いてしまうことを
改める必要があるとも思っている。

なぜなら、おもしろいことを見つけるたびに
それに費やしたい時間が増えるため、必然と個々の時間は短くなっていくのである。
24時間は24時間以上にはならないのだから。


やりたいことの中からもさらにやりたいことを見いだし
純度の濃いものに磨き上げていくという作業を強いることは
今後の自分にとって大変重要なことだと思うのです。

それはある意味では発展させていくということでもあるが
また別のある意味では切り捨てていくということでもあるのだ。


そうこう考えていると、寝ている時間というのがとても惜しく思えてしまう。
寝る幸せというのはもちろんわかっているつもりだが、
それに一日の1/4を費やしているのには納得がいかない。

不眠症の方に眠気を分けてあげたいという話はよくするが
そんなことが本当にできるならば献血以上に協力的になるだろう。
(私は血が薄いので献血には行ったことがないのだが…)


とにかく、時間は限られていて常に動いている。
それをどのように使って、どのような自分という存在を形成していくかは
全て今の自分次第になるのだ。
(という結局、自己中心的世界論に落ち着いてしまうのだなぁ)