ごはんのふるまい


ごはん(ここで言う「ごはん」とは「炊いたお米」のことを示す)は日本人の主食だ。
パン食が増えつつある現代でもこれは揺るがない事実だと思う。


日本人の食事の中で多く登場するごはんだが、それを使ったメニューバリエーションは様々だ。
一般的にごはんの食べ方と言えば、炊いただけのお茶碗に盛られた白飯だ。
定食などでは「みそ汁(汁物)」「おかず」と並ぶ三大柱の一つをなす白飯は、ごはんのもっともベーシックな姿と言えよう。
ほかにも、丼物や雑炊、鰻重などの重物、お茶漬け、タコライス、カレーライスのような形態などいろいろな組み合わせがある。

私は、カレーライスは混ぜないで(スプーンの中で小さいカレーライスを作って、もしくは別々に)食べる派なのだが、
これには私の考え方に基づき、行き着いた結果である。

丼物やカレーライス、具の入ったおにぎりにあげられるような、ごはんと「おかず」を組み合わせたものは、
私の中ではごはんと「おかず」を組み合わせたものでしかないのだ。
定食で、ごはんとともに「おかず」を食べるように、丼物などの場合もその姿勢を崩さないのが私のごはんに対する姿勢である。


とある人の場合、カレーライスなどは「結局混ざるんだから同じだろう」と主張する人がいるが、
それは大きな間違いを犯している。
ごはんと「おかず」の組み合わせというのは、それが同時に(もしくは別々に)口に運ばれたとき、最初の段階では別々の印象を与えるのだ。
ごはんの優しくほのかな甘みと「おかず」の旨みがまず感じられる。
そして、これらが徐々に混ざり合い、お互いを引き立てつつ最高の至福をもたらすのだ。

これらを口に運ぶ前に混ぜると言うことは最初の印象を台無しにしてしまうことになる。
イッテンやジャッドが色彩論でそう考えたように、「統一」と「変化」によって「調和」はもたらされるのだ。
「結局混ざるんだから同じだろう」という考え方の方は「食事を楽しむ」ということを忘れないでいて欲しい。

極めて特殊で文化的な「お寿司」というごはんの姿があるが、
プロの寿司職人はしゃり(ごはん)がほどけてネタとともに口の中で絶妙に溶けていく最高の握り方を追求している。
日本の誇る「お寿司」は、やはり食に対する「調和」を最大まで極めた文化だろう。

また、わたしの場合、食事は味覚だけでなく五感で楽しむものだと信じている。
味はもちろん、香り、見た目、調理中や口の中で奏でる料理の音、食感など全ての感覚で味わうのだ。
見た目の美しさはおいしさの重要な部分でもある。カレーライスをわざわざまずそうにして食べようとは思わないのだ。


ごはんと「汁物」の組み合わせで言えば、お茶漬け・雑炊・みそ汁ごはんなどがあげられる。
これらは炊いた白飯を調理するという点でごはんと「おかず」を組み合わせたものとは別の存在だ。
これらと同じように「炒飯」も炊いた白飯を調理するというジャンルに属することになる。

「炒飯」はごはんと「おかず」を組み合わせたものと考えることもできるが、大きく違うのは調理をしていると言う点だ。
炊いた白飯を具材などと炒めることによってごはんはまた違ったおいしさをだすのだ。
これは丼物などにはない味表現を作り出す。


では、炊き込みご飯も同じジャンルに属すかと言えば、それは少し違う。
炊き込みご飯などの調理方法は、炊いた白飯を調理するのではなく炊く段階で調理を行うからだ。


他にも洋風の雑炊「リゾット」や炊き込みご飯「パエリア」「ピラフ」などがあるが、これらも全く違うジャンルに属する。
一見、「リゾット」は雑炊と、「パエリア」などは炊き込みご飯と同じような調理方法だと思うが、お米に対する考え方が違うのだ。
「リゾット」や「パエリア」などのお米に対する考え方は「パスタ」に非常に近い。
高級レストランなどの本場のシェフのいるお店で「リゾット」を食べてみれば、その感覚というのは非常によく分かると思う。


ここであげた以外にも「きりたんぽ」や「おかき」などのようにごはんにはさまざまな姿がある。
ただ食べるだけでなく、工夫を凝らすことによって、ささやかな食事も何倍も美味しくなるだろう。